ドーユーラボ日記 発達障害の公表問題

小島慶子さんのADHD公表ついて思うこと長文
今年は、発達障害の研究を深くすすめることができた。
春に、厚労省の職場適応援助者の研修を完了できたこと、沖縄県では、児童向けの放課後等デイサービス「ドーユーラボ☆ひやごん」の開設、沖縄リハビリテーションセンター病院の精神科医やんばる(後藤)先生や、宮里理事長から、発達障害に関するいろいろなことをご教示いただき、さらに施設の児童がチャレンジできるチャンスもくださった。
自分は指導の立場でありながら、毎日、才能あふれる児童と触れ合うことは、本当に楽しい時間を過ごせて子供の頃を思い出し学び深い日々だ。
最近、小島慶子さんがADHDを公表したことについて、
似た立場であるとして、自分が経験した、良いこと難しいことなど、問題点をあげてみる。
二次障害からの回復、認知の歪みの補正によって、本人が本人らしさを取り戻すと、
これまでの周囲の人との関係が崩れるリスクがあると考えている。
「当事者ゆえに、急進的に発達障害を学び・伝えすぎてしまう。」
「発達障害認知の結果、病的に普通にこだわるか、開き直りすぎる両極端な別の二次障害が起こる。」
「診断を受け告知をすると、取り巻く周囲と付き合えなくなる。」
この3点について考えていきたい。
私は、ADHDだからというよりも、ピンポイントではっきり
「このことと、このことは、とても苦手ですので、すみません・・・・」
と伝えるべきだと考えている。当事者こそ想像できないと思うが、周囲はこの人は個性的な人と、すでに察しているので、あえて診断を言わなくてもよいのだ。多くの一般的な人は、「あなたが言わなくても、あなたの特性は十分わかっております。」
となるから、問題なことを伝えれば良い。

|環境の問題

小島さん、あるいは私のように、中年以降に発達障害がわかるということは、本人の問題だけではなく、取り巻く人々や環境、社会が年々複雑になり追いつけなくなったのだ。
社会の成熟化によって、発達障害が近年クローズアップされたこと、一方で、まだまだ発展途上国には、発達障害という概念がないようだ。先進国の成熟化、村や地域、集落などの小さな社会から、ネットによって自分のご近所が世界になってしまい、自他の区別や差異について、世の中が神経質になってしまった。環境要因とも捉えられる。
30代から40代にかけて、結婚であったり、会社の組織でたくさんの人をまとめる管理者の難しさなど、社会的な立場や調整役として求められる際、「若い頃は気にならないが、年齢とともに、違和が深くなっていく。」起こるものと思う。ピラミッド構造な会社組織において、普通にこだわり、外れることの恐怖はとても多いと察する。
公立学校のスクールカウンセラー制度導入以前の、心の問題を相談しづらい1980年代生まれ、30半ば以降の中年の発達障害問題が深刻化すると考えている。
実は、僕にも個人的な相談がこの世代がおおい。
本当は、性格として、波平さんのようなカミナリ親父や大阪のおばちゃんとして、積極奇異な性格を自虐的に捉えて、健康的で当たり前だったとおもう。自分の祖父の話を聞いてみると、豪快な武勇伝が多い、その個性的な祖父に対する苦労を受けて、叔父叔母は、普通にこだわる発言が多い。良いことも悪いことも目立ってはいけない、お金持ちになると妬まれる、役人が1番とした、普通を過剰に目指すことも不気味は日本式ナチュラルアダルトチルドレンとして、「強烈に個性を隠した普通をめざして生きてきた」そうだ。昔も発達障害は存在をしていたが、抑えなくてはいけない時代だったと思った。スクールカウンセラーが設置されて相談しやすいようになると、個性のラベル化として、むしろ自分の個性として前向きでも後ろ向きでもなく、この障害を自然に受け入れている気もする。
毎朝、清々しく痛いのは、ワイドショーの学者系コメンテーターのように、自分の意見の正直さこそ、1番とする姿勢は、空気を大切にする日本式AC世代にバトルしている気もして、多少は共感できる。若い人は、遠慮なく凸凹であり、取りまとめの司会者は、本当は羨ましいと思っているのかもしれない。

|高知能の問題 考えることと思うことは一緒だった

若い頃はうまく対処できた高知能凸凹な方は、中年で、ようやく行き詰まって問題になる気がしている。考えることによって、自分のズレをなんとか補正してこれたが、処理が間に合わなくなった。長年「考える」ことと、「思うこと」の違いに気がつかないし、「社会に適応するために、考えることで対処をすることが当たり前だった。」
私がやんばる先生から指導を受けたことは、「意識の速度と、考える速度はまるで違うので、あなたが高IQだとしても、多数派の速度においつけないと思うことが良い。追いついても、ウルトラマンのタイマーのように数分が限界である。」と教えられた。
多くの人は「考えなくてもできる」ことは、当たり前すぎているから説明できない。それは、ハサミで紙を切るのに、角度は何度で、切り込みを入れて・・・などいちいち考えることはしない。それは疲れる。
中年になって、いろいろと考えすぎて社会に合わせ過ぎていて、おかしいことにようやく気がつく。AC型の破綻(引用)

|当事者か当事者ではないかの区物

厚労省の職場適応援助者の講習をうけた。障がい者全体を支援をするための認定制度であったが、内容的には、ほぼ発達障害者を対象とした講習であった。個人的に、企業から派遣された障害者部署の何人かの管理者をみて、当事者かもしれないがふりをしているなと、不思議に思ったことがある。「アイコンタクトや表情」がダイナミック。「表情の反応が遅い」
反応をしなくてはいけないと、強く思いすぎているので、未就学児を指導をする保育士のような表情のように変化が大きい。
過剰に「相手にアクションをする反応速度」が、考える分若干遅いから違和を覚えて、
発達障害者の特徴を頑張って克服しているように思った。おそらく、障害者担当の管理者も当事者であり、企業も、障害者部署に適正であるとして配属をした可能性がある。当人だけは、発達障害を受け入れられずにいて、多数派を頑張って演じている様子に見えた。
障害者部署のストレスなのか、部下がわからないと思って、
「高度にいじる、一部の人しか理解でないようなイジリがひどかった。」
自分は、当事者として、痛いイジリに反応をしないようにしていたら、エスカレートをして発達障害者に当たっていた。この人は積極奇異か受動型だなとついつい読んでしまったのだが、発達障害の当事者も、それを取り巻く人も、発達障害を意識しすぎて、「言語の定義に依存をして、区別をしすぎてしまう」ことが問題と考えた。
発達障害とは、「部分的に個性が強いぐらいに思うべき」で、その人全体がADHDやASDではない。決めつけるべきではない。障害者は空気が読めず間がわからないので、作業指示を文章化する。というのも決めつけすぎだ。
生活に困るぐらい生まれつき、目の視力が猛烈に悪いが、その分耳が敏感になったので音楽をやっている。という例えのようだと思う。

|メディアの問題

「周囲に迷惑をかけたり困惑をさせること」がニュースやテレビ番組になる。一方で「発達障害だからできる具体的に良いこと」があまり伝えられていない。障害は、ネガティブなことばかりではなく、「当事者も気がつかない、素晴らしい発達障害の個性によって、周囲はやりやすかった。」ことも多いのだ。
やんばる先生からは、釣りバカ日誌のハマちゃんを例に、指導をかなり受けた。山田洋二監督の映画は、男はつらいよも含めて、ADHDがスターだ。ハマちゃんも(寅さんも)本当のことを言いすぎるADHDで、空気を凍らせる。でも、よくぞ言ってくれた。と、みんな内心は思う。営業成績はトップだったりするし、孤立型な社長、スーさんは彼を信頼をする。フィクションではあるが、よくあることと思う。
そのハマちゃんが、精神科にかかり、「なるほどですねと」急に空気を読みだしたら、あざといになってしまうし、周囲は驚くだろう。


|周囲の問題

小島さんのように、当人の発達障害が話題となり、当事者として意見を伝え出し、メディアも連日のようにインタビューをしだすと、長年気兼ねなく付き合ってくれた周囲の人も、(テレビや芸能といった、一般的ではない職種でもあり)類する人が多いかもしれないので、本人が診断を受けてから、急に変わってしまったと思ったり、「自分も本人からそのようにみられるのではないか。」など無意識の恐怖の連鎖が起こる。
当事者から伝える「自分の問題に興味を持ってしまった前向きなADHDの雑談」は、周囲にとっては避けたい精神疾患の受け止め方となるケースを何度も見てきた。
当人は自分の問題であることと、長年の問題を解決できたから良いと伝えるが、(実は、当人の周囲の関係者は、自分も悩み始めていると本当は言いたく)周囲の人は、「その話題に触れないでほしい」と思っていること、デリケートになった方が良い。発達障害者こそ、相手の立場になった自分の言動が想像できない。
昔のゲーム業界も特殊で、ずば抜けた個性が求められる反面、一般の職場では許されないような常識や、許容され自由な雰囲気が強かった。該当する人は近年の管理の厳格化と、当時のクリエイターが中年期に差し掛かり、管理の立場となった人から私への相談は多い。パニック障害やうつ病の一次障害は、発達障害とする診断が近年急増しているように思える。疎遠になって、久しい自分にいきなり助走がなく障害の話ができる時点で、自分は仲間だなと前向きに思うが、「この人は診断の経過によっては面倒になるだろうな」と察する。

|当事者の問題

当事者は、診断後に認知の歪みが補正されるので
「周囲の人々の言動が気になってくる。」「過去の出来事に対する認知が異なってくる。」
発達障害の当事者だからこそ、「自分の障害そのものに対しても、深い興味と関心を持ち出す=過集中」その結果、回復が早いが、周囲への告知を急ぎすぎたり、伝えすぎたり、障害と健常を区別しすぎる。当人だけではない、周囲に起きていたトラブルも一気に解決をするが、当人を取り巻く周囲や社会が変化して、それまでの仲間とは、うまくやれない可能性もたかい。自分は、5年間で周囲の交流関係が一変したが、いまだに良いのか悪いのかわからない。
私のかつての組織の問題であるが、素晴らしい仲間たちが、日夜共に成長に向けて頑張ってくれた。言語外の裏もなく、ピュアで前向きな仲間たちは、まるで自分を中心をした宗教のように邁進してくれた。でも、会社の拡大時、次々と加わる中途採用でトラブルが続失した。ズルをせず、悪い免疫もない創業メンバーに対して、サボったり、悪いことや問題行動をする中途入社の問題を見抜けずにいた。
逆に、私のプロフィールを見たり、なんとなく相性が良さそうとして、発達障害の傾向の強い人が急接近して大多数になると、発達障害特有のパニックやヒステリックが続出した。臨床心理士の先生に協力をいただいて、モグラ叩きのように社員の問題を解決する5年間だった。
自分も、小島慶子さんのように、世の中の一般的なことは大体は頑張ればできて、ADHDの特性は仕事に生かされ、仲間も増えた。だが、ADHDを自分で勝手に補正をして長年生きてきたことと、人の裏の顔を読みきったことで、適応障害=察しすぎるになっていた。二次障害の深く読みすぎて、普通にこだわり、病的な細かさこそ、アスペルガー風でもあり誤診もあった。昔の自分であった、純粋なADHDで惹きつけられた周囲の人は、これでは嫌になるだろうと思った。
やんばる先生にお世話になったことは、私の認知の歪みを補正をして、「遅刻魔、空気を読まない、多動、忘れん棒」とした、一旦あえて再びADHDに復帰することと、(自然と)集まる凸凹な人たちの対策を教えていただいた。
さて、今度は、ADHDを受け入れて、ダイナミックな自分を取り戻すと、「適応障害な自分を知っている周囲」は困惑する。自分の記事でよく書くように、当事者で類する者は、認知して全開な自分に嫌悪感を持つ。
このように、回復をすることとは、性格が急展開することであり、慌てずじっくりゆっくり、何事もすすめることと考える。40年もの間の認知の歪みの補正は、告知や診断によって、周囲の人にとっても、ショックが大きい。ADHDを受け入れれたとしても、補正をしても、(仮に治ったとしても)カミングアウトをした爽快感・世の中の見え方価値観は前向きに変わるので、まるで別人となり、それまでの仲間や家族とはうまくいかなくなってしまうリスクが大きいのだ。本人がADHDで極端に不注意・衝動的だとしても、それを極端に支えすぎるアスペルガー風なパートナーと相性が良かったりする。完治したとたん、つまらない人になってはいけない。
自分は、AC型な物静かな雰囲気から、抑えていた感情が爆発し、多動全開になったと思う。
それでも、心にいつもあるのは、「・・・過ぎない」ことである。
以上、長文とまとまりのない内容、お読み頂きまして、ありがとうございました。
南雲玲生

株式会社ユードー代表取締役、株式会社タピックCIO、厚生労働省職場適応(在籍型)援助者、ドーユーラボひやごん創設者

お悩み相談のお悩み
毎週のように、私あてのFACEBOOKに発達障害についての相談がきた時期があった。
発達障害が話題の際には、「いいね」が極端に少ないが、実はきちんと読まれていてPVが異常に高い。本当は関心が一番高いのだ。
最初は二次障害の鬱やパニック障害、近年は子供の診察が出たという理由をしているが、本当は凸凹に本人は気づいていて、誰にも相談ができない。身近な人に相談ができないので、身近ではない距離の遠い自分にくることが多い。今、世の中で一番怖いこと、ガンに近いぐらいみんな怖いのが発達障害ではないか、と思う。
自分は、そうなのか、そうでないかは別にして、たくさん聞いて、たくさん話すように心がけた。共依存かもしれないが、ADHDな人は他人事に思えずにいて、どうにかしたいと思った。自分に近いけれども、言語の正誤にこだわる人は、積極奇異型と思った。
悩みの割に深刻さが伝わらなかったりすると、ACと思うし、そして、「自由奔放な生き方風」で生活破綻している場合、発達障害の中でも一番最後に問題化する受動型だなとか、当事者だからこそすぐにわかった。
やんばる先生に釘を刺されたが、面倒なことになるので、今は、関東であれば幾つかの専門医の病院に、数ヶ月待ってでも受診をしたほうが良いと伝えるようにしている。先生も毎日多忙で、専門医が不足しているのだ・・・。

One Response

  • 初めまして!
    私はドーユー☆ラボ様とは関係無い者ですが、コメントしても大丈夫でしょうか?

    実はやんばる先生の「意味不明な人々」のブログにある最近のコメントからこちらのリンク先に辿り着いたのですが、ブログの運営人である南雲様に質問があり、コメントさせていただきました。

    私は数年前、やんばる先生のブログにユーザー登録した上でコメントしたことがあるのですが、いつの間にかログインする・しないに関わらずコメントできなくなってしまいました。
    ちなみに、コメントすると「スパムです」とエラーメッセージが表示されます(「ログイン画面のページも保護して貰えないですか?」と書いただけなのですが…)。

    お忙しい中大変恐れ入りますが、みて貰えるとありがたいです。

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