教えることを考える

Last Updated on 2018-11-14 by djnagureo

 

 

先日、娘の模擬テストがあって、問題を見てみた。

なんとなくいろいろ考えてみた。

 

中学二年生ぐらいの問題は、自分は簡単に解けるだろうと思っていたが

「まずい」難しいぞ、と思って、夢中になって問題を解く「考え方」を考えた。

(自分は、中学受験で挫折してから、中学生から今日までまともに勉強をしていない。)

比例反比例

 

最近、その問題や作品の解法を伝えることよりも、

「考え方」や「思い」を伝えることの方が大切だと思っている。

 

才能あふれる高校生がいて、悩んだことがあった。

「答えを伝えたり、解法を導く」ことは簡単だけれども、

ストレートに答えを伝えると、ずっと答えを求める・教える依存になってしまう。

 

そこで、

「考え方」を楽しく、面白く、見せて、実演をすれば良いと考えた。

解き方を教えることは、「学習塾」でもできる。

自分は、それ以上のことを教えようと思った。

 

高校生の学生には、

逆に、南雲(私)に、作曲の課題を出してみて?と伝えた。

彼女は、中年の自分にリクエストを出すことは、難しいだろうなと思いつつ。

 

学生「なんとなく、BARみたいな感じ。」

南雲「子供はさぁ、BARなんて言ったことないじゃん!」

として、彼女の漠然としたイメージで、その場で作曲をしてみた。

 

この時に思ったのは、児童や学生のように、

私自分も、悩んだり、実演をして、問題に対してどのように解決したり

結論を出していくのか。

 

その過程を「本当」で「実際」に、自分の問題も含めて、体当たりで見せていくことだと考えた。

 

今、自分自身の葛藤があって、

児童や学生に向き合う「そのままな自分」と

「経営者としての自分」がある。

 

児童にとっては、「経営者としての自分」はどうでも良いけれども

「こんな自分」でも、45歳までなんとかなっている。

と言った後ろ姿を見せたくて、そのことは自信がある。

 

先日、職員には、「私は経営をやりたくない。」

だから、今は、「経営の(さしすせそ)を必死で教える。」と伝えた。

 

自分は児童に向き合ういたい。好きなことに集中をしたいから

自分の代わりに、経営をやって欲しい。そのために、必死に教えるという意味だ。

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