Last Updated on 2018-05-27 by djnagureo
児童を楽しく教えていて「目」でわかること、気づきがあります。
小学校の高学年になると、
興味や関心がないことでも、ある程度合わせられるようになってきますが
あれ?っと気づくと、
過集中といった、一般的な集中とは異なる「集中」に突然入り、
目の動きも固定されて
視野が狭くなる、あるいは、自分の世界にはいるような雰囲気になります。
自分も、幼稚園に入る前ぐらいから、「集中しすぎる」=「過集中」があったために
一般的な「集中」との違いがわからずにおりました。
最近、児童が「集中しすぎる」状態になり、加速度的に学ぶ姿勢を見ていて
初めて自分以外の人で、
過集中のスイッチが入ることを見ることができました。
ここにもいたと、「嬉しい」思いと、若い頃ならば、多少無理しても大丈夫だぞ。
そのように思います。
でも、目が悪くなるなぁと。
ここで、自分の回想を・・・。
過集中は、「何かに夢中になること」よりも、「考えることを探している状態」
であると考えます。
内向的で、思考が多動となっている状態です。
今考えれば、10代の自分は、経済的に安くて効率的な何かで埋めていました。
そのためには、分厚い本。
大好きな坂本龍一さんは、1984年ぐらいに、本本堂といった出版の会社をやられました。
その影響で、
小学生の頃、吉本隆明(評論家)さんと坂本龍一さんの 音楽機械論 を読み
聞こえている音楽に対して、どのように認知するのか。
当時の教授(=坂本龍一さん)は、音楽を、衝動的な感情や民族的な心や思いではなく
すべて、計量的に分析をして作り上げる。
これまでの吉本隆明の分厚い本の難解さは、
80年代のポストモダンでいうラディカルとなり、
美空ひばりや中島みゆきの詩を取り上げ、心を打たれたなど、「衝動こそ源流」と仰られる、変革期でした。
教授は、これまでの吉本隆明のように、逆の立場になって、
音楽を理論で説明をして、吉本隆明を論破をします。
「音を視る、時を聴く」
音は、自分の目の前に存在をしているのか。
など、音を認識することは、何なのか。中学の頃読み出しました。
自分は、良いことも悪いこともすべて必然性がある。
(スネークマンショーでも、桑原茂一のギャグがありました。良いことも悪いこともある。)
中学生の頃に読んだ マルクス主義哲学講座(リンク)
サルトルも、鈴木大拙も読み出しました。
「過集中」だから読めたことで、
いつもは「面倒なのよく読んだな!」読むことはできません。
「過集中」の時は、分厚い本を読むと、心がスッキリします。
難解な本もさらっと読めるからです。
小学生の頃、自分は図書館で、どもりは=吃音であることがわかり、
書籍を読み、結果、BPD(パーソナリティ障害)ではないかと考え、
図書館に通いました。今から30年前。
親が持っていた健康手帳を内緒でぬきとった、1987-8年。
中学生の僕は「うつ病」の診断を受けました。親には言えませんでした。
「発達障害」がない時代で、今の時代ならば、引きこもりでしょう。
それでもあえて周囲より下げるとか、ACアダルトチルドレンでもありました。
早く楽に死ぬ方法を見つける、など、異常でした。
学校の成績はそこそこでしたが、検査の結果IQは高く、
だからこそ、地元の心療内科でも、
通えば通うほど「心の甘え」として、女医に激怒をされました。
ここまで「落ちれば」世の中怖いものはない、と開き直る自分もありまして、
自由で楽しそうな地元の進学校で、
好きなことを楽しみました。音楽については「過集中」で頑張りました。
音楽の先生は、自分のために、シンセサイザーを置かせてくれる
練習室を与えてくれました。
この思春期の自分を支えてくれた、高校の音楽の先生には、本当に感謝をしています。
たくさんの生徒がいる中。
よくわからないが、何かを切り開こうとする自分を見てくださったこと。
前向きで、周囲に構わず、わがままに突き抜け、夢中=過集中になった経験
就労することができて、みなさんが知っているゲームが作れたことは
本当にありがたいと思います。
過集中がとても大きな、大きな特性です。
最近は、過集中によって、自分は図太く
人に見せないが、内面の面倒くささも抱えながら、後を振り返られずに進める自分がおります。
過集中は、「後になると多くの人は必然であった」となるように
自分は、合理的な集中かどうか考えること。
その後に、虚脱として、燃料不足がくること。
第三者的に自己を見つめる癖をつけています。
児童を見ていて、懐かしい思いと、今の時代でよかったな。
そのように思います。
私も、そういえばタブレット使っていなかったなと、絵を描いています。
これなら、タブレットいらないだろうと・・・