Last Updated on 2023-05-17 by nakazono
そう思っているADHDジャイアンはいますか?
ジャイアンADHDの中園です。
自分自身を振り返ってみて確信しました。
ジャイアンADHDは若いうちに自分の実力・能力を知っておくべきで、誇りや自信になるものを身に付けておいた方が良くて、あとはたくさん失敗する姿を周りに見せておかないとやばいです。
そうしておかないと、いい歳して「自分は本当はもっと出来るはずだ」とか「昔は俺はなあ…」とか吹聴するちょっと痛い人間になるか、逆に、失敗するところを見られるくらいならやらない方がマシと考え、最初から取り組もうとせず、自分の実力や限界値がわからないために何も行動できない人間になってしまいます。
失敗したくない?初めてやるスーパーマリオでノーミスで全クリできますか?現実とゲームは確かに違いますが、死なない程度にたくさん失敗しておきましょう。
人は自分が持っているもの(コネでも外見でも学力でも運動神経でも、とにかく何でも)を駆使して生きていかなければならないので、数ある能力や実力のうちの一つの現在地を知るツールとして、勉強があると思っています。
大人って時間がないのです。
大人は他人の中身を見て判断する時間がないので、見た目や学歴、話し方、所作などを見てある程度判断する事が多いです。
大人になると、あなたの魅力を知ってもらう前に、箸の持ち方で一方的に「ないわー」とか思われたりしてしまうかもしれないのです。理不尽ですよね。
例えば何か研究施設などの就職面接で
「私は物理学に明るく〇〇大学物理学部レベルの知識はあると思いますがそこへ受験すらしていません、受験すらしていないという事はつまり私はその学部同等の知識がある状態とない状態が折り重なっているいわゆるシュレーディンガーの猫のような不安定な状態でペラペーラペラペラ…」
と口頭で言うより、
[〇〇大学 物理学部の卒業証書]や
[自分で書いた物理学に関する論文]等を示す方がはるかに短時間かつ説得力があるのです。
前者だと、まず面接までありつけられればの話ですが、逆に後者だと向こうが履歴書を見た時点で「たくさん話を聞きたい」と思ってくれます。これが現実です。
掛け算はどうやって解いている?
まず前提として、かつて解いたこのがあるであろう4324+359などの答えを丸暗記している人はいないと思います。
1個のものと1個のものをあわせたら2個になる、というような足し算の仕組みを理解していれば、数字を変えても同じ考え方で答えを導き出せる、ということがわかります。その理解が、日常生活などで役に立っていますよね。
そして、掛け算を習う時は、足し算が間接的に役に立っています。
まずは、1+1+1は1×3で表すことができます、と習い始めて、反復していくうちに頭の中で足し算が省略されて4×9=36など掛け算の答えが出てくるようになりますよね。
中学校で習う難しい公式なども役に立つのか?
昔、ビートたけしがやっていた数学のバラエティ番組で確かこんな事を言っていました。
映画で腕のある殺し屋という描写をする為に、ストーリーにさほど重要では無い人物を5人殺すとした場合、わざわざ5人の死に様をそれぞれ撮る必要はなく、殺し屋が歩いている後ろに5人の人物が倒れている場面を入れるだけで説明ができるのです。
つまり、殺し屋が人を一人殺す時間をnとすると、人物a,b,c,d,eの5人を殺す映像はna+nb+nc+nd+neの時間が掛かりますが、n(a+b+c+d+e)と因数分解した状態で映像化すればすっきり簡潔な描写になるということです(うろ覚えですが)。
映画でわざわざ5人殺す描写をしてしまったのに、後々これらが何の伏線でもなかった場合はただの時間の無駄になってしまうので、不必要なものは最低限の描写で済ませるというのは暗黙の了解なのです。
因数分解そのものの計算が役立つというよりも、こういった思考に役立つのです。
つまりつまり、習ったことが全て何かの役に立っているという自覚はなくても、考え方が柔軟になったり、違う視点から見てみようとする、などなど、間接的に、確実に役に立っているのです。
宿題は何のため?
足し算や掛け算の仕組みは理解できたのに、なぜ、毎日宿題で同じことを繰り返すのか?
先程、掛け算は足し算が間接的に役立っていると伝えました。
この掛け算をする時に足し算を省略する過程、省略する時間をいかに短縮できるかというのは、反復練習が効果的な人が多いからだと思います。
なぜ短縮する必要があるのかというと、単元が進み、3桁の掛け算くらいになると、1桁の掛け算くらいは数秒でパッと答えが出るくらいになっているという前提のもと教科書が進んでいくかもしれません。
1桁の掛け算の反復練習(≒宿題)をあまりやらなかった場合、3桁の掛け算のテストの際に制限時間内に実力を発揮できない可能性が高いのです。
割り算を習うときには、掛け算の答えはすぐに出せるという前提で教科書は作られているはずです。
同じことを繰り返す家庭学習は、これから学問を積み重ねるために基礎を盤石にしているとも言えます。
国語も同様で、今習っている漢字は、これから先の単元ではもう読み書きできるという前提なので、何度も書いて覚えなさい、としているのです。
学校の勉強や宿題、テストはそれ自体が目的ではなく、自分が将来何になるのか、その選択肢を増やす為の手段です。 目的がないのなら、あらかじめ選択肢を増やしておきましょう。 原付免許だけだと排気量50ccのバイクにしか乗れませんので、制約も多く、乗れるバイクも少ないです。 学歴と就職も運転免許と同じようなもの、という話で、どれくらいの学歴・資格を持っているかによって、どこに就職できるかという選択肢の数が変わってきます。 今の学力では良い学校に行けなさそうだから関係ない、ということでもありませんよ。 最も重要なのは、試験や入試で自分の実力を知れるという事です。 これは学校の先生も口うるさく言っていると思いますが…果たして覚えていますか? テストの点数や、どこに進学するかということが自分が今持っている実力の指標にもなります。 ジャイアンが努力せずに入れるところばかり選んでいれば、自分の能力の上限が分からないままなので、どこに居ても「自分は本当はこんな所にいるべきではない、もっと出来る人間だ」という自尊心の大きさに反比例して行動力のない(行動できない)金縛り人間になるかもしれません。 そうです、ADHDジャイアンが努力を避け続けて、かつ誇れるものが無く生きていくとこんな感じにやばいのです。 ジャイアンだけじゃないかもしれませんが、早いうちに好きな事を見つけていて努力しているという自覚なく四六時中ずっと熱中しているのであれば、この限りではないと思います。 というか、そういう努力の自覚なく熱中したものは、後に本人の中で「誇れるもの」になるので、これは心の中の大きな支えとなりますが、飽きっぽいのが玉に瑕ですね。 何ならこのブログを飽きずにここまで読んでいるジャイアンはいないかもしれません。 学歴が全てということは決してありませんが、人格を後天的に獲得する性格と位置付けるなら、学歴は人格を構成する一部のきっかけであると言えるでしょう。 起業するにしても、極端な例で言えば「ハーバード大学を卒業しました」と自己紹介できれば、なんか色々と話が早いと思います。 今、どれくらい勉強したかによって、選択肢の数が変わってくるのです。 思ったより選択肢が少ない、ということもあるでしょう。良かったじゃないですか、虚構の自尊心がムクムク膨らまずに済みましたよ。 全力を尽くしたその結果をきちんと受け入れて、自覚した上で選択して、その分野でまたさらに選択肢を広げたり、深く突き詰めていきましょう。 割と、多くの大人は、そういう細分化された何かの分野のスペシャリストだったりします。 社会に出ると、身近に「この人すげー」って人が沢山いて、そしてどの分野にもそういう「すげー人」がいて、さらにその「すげー人」が崇める「めっちゃすげー人」がいたりします。それらが、あなたが目標とするべき人物です。 社会人になってから「昔会ったあの人すげー人だったんだ」とか思う事も割とあります。というか社会人生活で継続的にあります。あなたの親御さんも何かしらの分野のすげー人だったりするかもしれないですね。そうじゃないかもしれないですが。すいません適当な事言って。 実は、ドーユーラボも同じで、ドーユーラボに通う事は目的ではなく、手段です。 みなさんの保護者は、例えば「自分の子には将来、得意な事を活かして好きな仕事をして欲しい(目的)、そのためにドーユーラボで好きな事を見つけて欲しい(手段)」と考えて契約しているかもしれません。 あくまでも手段でしかないドーユーラボで過ごす時間は有意義なものですか? 教養が身に付く、というのはつまり、 面白き ということだと思います。 終わり 目的と手段
ですが、中型二輪免許だと400ccまでのバイクに乗れますし、大型二輪免許だと、排気量は制限なく何ccでも、全てのバイクに乗れます。バイクに乗れって話じゃないですよ。
ましてや仕事選びとなると、一日の1/3もの時間を費やすので、人生において重要な選択となるはずです。まとめ:学習って何なの
こともなき世を
面白く