ドーユーラボの「かもしれない会議」

Last Updated on 2018-11-20 by djnagureo

かもしれない会議

相手、みんなはどう思ったのか、意見を聞いてみたりする。

「・・・くんは、こんな気持ちではないか。」

いろいろな場面での相手の気持ち。

 

自分の考えを確かめてみる

「あのさー、あのときは、どうおもったかな?」

自分の察しや気持ちの受け取りについて、確認をしたりして

みんなで感受性を高める。

悲しそうな表情、楽しそうな表情をしたので

「こうかもしれない」「あれかもしれない」

「自分も同じです」とか、「このようにも、考えられませんか?」

みんなで議論をする機会が多くなった。

 

ふとしたことを、「みんなならばどう思う?」

児童からは、学校の問題などが出てくれるとよい。

「あのとき、あーおもったけれども、こうなのか!」

一般的には、このような思い、後ろ向きには、このような思い。

自分だけかもしれないけれども、このように感じた。

など、職員全員で全てを出してみる。

 

ことばにしてみる

根拠がなくても、楽しさも、不安も、何でもかんでも、心を外に出すことが大切で

言葉を超えた、その先の思いを気づき合うことができる第一歩だ。

言葉は入り口にすぎなく、漠然ともっと複雑な思いがある。

言葉にすることが第一歩で、大事な施設=空間にしたい。

(自分も多数派的な思いが多少あるのかもしれないと思った。)

 

4-5年もの間、後藤先生から、細かく

場面への分析をして頂いてきたことでもある。

「あくまでも、多数派の思考の想像であるが」として文章にまとめてくださる。

 

自分を伝える恥ずかしさ

先生との記録を振り返ると、

自分の気持ちを正直に伝えることが

むかしは、あまりにもできていなかったこともわかった。

発達障害の研究、事業の対象も「斉藤さん」のような凸凹コミュニティも発端で、

僕の興味の対象が人、そして心になってきた。

だから、

「自分の自身の気持ちも研究対象であり、正直に他者へ伝えても、何も問題ないと思っているのでは?」

と後藤先生は分析をした。

自分は全く恥ずかしくもない。それは、自分の研究テーマだから。

 

当事者の多数派シミュレーション

かつての私の心の場所は、一人称から三人称を覗くような、

「バーチャル多数派」であった。

つまり、自分という存在をもとに、相手、その周囲を見るようなこと。

当たり前だけれども、多くの人は、もっと俯瞰をしていると思う。

 

最近の私の場所は、三人称の集団を、さらに映像や物語のように、

閲覧をする四人称に移行をしている気がしてきた。

自分は現実のそこにいても、いない感じもするし、俯瞰をしてその空間を見ている自分もいる。

先のブログ、関西のボケツッコミのように、

自分の心の置き場所が、自分の外側から自分を見ているように

緩やかに移行をしているような気がする。

細かいことではなく、広く大きく見る。とも言える。

心に打たれないとも言えるし、反応しないとも言えて、

結果、中年への道を歩んでいるなとも思った。

 

|ありがとう

沖縄も寒くなってきました。

自分は、那覇の部屋を片付けて、東京に戻っています。

部屋の解約はやめて、借りたままにしておこうと思います。

いつも長居をしてしまう、沖縄のご近所な飲み屋さんで、

「ありがとう」を一枚一枚描いていて、はっと思う。

「俺が良いと思ったら、よいんだよ!」てなマスターのくせに、ですよ。

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