ニュータイプなギフテッド分析1

沖縄で月に数回、受け入れる児童と面談をおこなう。初対面で緊張をしている児童の表情が変わる瞬間を探しながら、うまく「ロックオン」すると安心するし、楽しみでもある。子供を育てたときや、子供の頃を思い出しながら向き合うと、自然と同じ目線で話せる。

児童の関心はピンポイントで、宇宙に猛烈に反応をしたり、化学・生物、パソコン、ゲーム、アニメへとつながる。話が深くなったりすると、僕の心の共通点と合致して児童も心を開いてくれる気がするので、「ニュータイプ」がいたとして、ますますワクワクするものだ。僕は、「ギフテッド(神が与えてくれた才能)」をニュータイプ(※)と言い換える。ようこそ、仲間よ!っと思う。


はなせばわかる

面談後に、偶然、遠くから観察をしていた精神科医の後藤先生と話をする。「私は違う診断をつけるかもしれない。」と仰られる。多動と診断を受けていた児童が、自閉傾向が強かったり、自閉の傾向がある児童が、実は多動かもしれないと言うことだ。理由を聞いて「なるほど」と学ぶことが増えたし、しばらく通院をしていない児童には、念の為、再度診察を受けてくださいと促す。

苦労をして困っていて、僕の施設への関心が高い児童は、みんな凸凹の才能を持っていて、話すとよくわかる。大人も子供も、困っていれば一旦「発達障害」としての診断をした方が良いと考えているが、障害としてとらえるのではなく、個性や才能として、社会は「プラス面」への視点をもつべきだと考えている。才能は、障害と表裏一体なのに、「プラス面の才能」について関心が乏しいのだ。

そこで才能と不適応の関係について、考えてみたいと思う。


心を開き深める多弁と、心を閉じてひろがる多弁

児童の場合、興味や関心が多くて本人が盛り上がると、多弁になることが多いのだが、物事を深く掘り進む多弁と、横展開に広がる多弁の2種あると思う。物事を深める研究者気質と、いろいろな発想を結びつけるクリエイター型とも言える。

児童が伝えることを僕がすぐに理解できるので、嬉しくなってすぐに心を開いてくれて、1つか2つの限定した話題を深く掘り下げられる。この場合は、自閉症スペクトラム(旧アスペルガー症候群)傾向が強いと思う。自分の話したいことを一生懸命で一方的に伝えてくれる反面、聞き手である他者を意識していないのだ。本人の心の中では、自分と他の人の気持ちは同じ世界にあることに疑いがない。僕がその話に合わせられることを前提として、たくさん話してくれる。児童は、私に一生懸命話してくれる風であるが、心を開いてくれると、相反して児童の心に私は存在しなくなるのだ。

一方で、周囲を警戒をしたり、緊張のあまりに多弁になって話が飛躍する場合は、ADHDだと思う。遠くから覗くように距離をとって俯瞰をしていたりして、心を開いてくれないが、本来は、他者を意識しないからこそ、自分と他者は違う存在であるとして、距離を置くのだ。本当は、私がどのように考えているのか、心配なのだ。ADHDの児童は、他者と自分は全く異なる存在として、他者との距離が非常に遠く、多弁に話をしながら、わたしに合わせてくれる

「多弁や多動で、エネルギッシュは、ADHDとする」インターネットなどにある発達障害の通説は、相当ずれているなと感じることが多いし、誤診断も多いと感じる。このように多弁をじっくり考えて、観察をすると、相手を意識していて話しているのか、意識しないで話しているかの2パターンの多弁であることに気がつく。

僕も著名人の記事を読んでいて、診断が異なるかもしれないと思うことがある。

著名な起業家系で宇宙事業をやる方など、本人は「多動力」としているけれども、僕は、ゼロかイチか、物事や他者への割り切りがはっきりしていて、多動性は全く見られなくて、積極奇異型に思う。


ギフテッドっぽいこと

  • 相手に関わらず、多弁で、心を開いて物事を深く掘り進める系は、限定された興味や関心についても同様で、研究者や専門職系な雰囲気がする。
  • 相手を意識して、緊張をした多弁で、話が飛躍する場合は、いろいろなものに興味をもち、組み合わせて表現をするイノベーターや、クリエイター
  • 不適応を乗り越えるために、自分を客観視できると、両方を兼ね備える

 

例えば、LEGOが好きな児童を観察をしていると

「色や形を整えること」丁寧に色やブロックの形を規則的に整えながら、目標の車や家などの形が出来上がっていくか。物事を深く進める傾向な児童。全体性は弱いが、局所的な興味や関心、こだわりは強くて、色や部品の特徴を教えてあげたり、丁寧に仕組みを説明をする。

木を見て森を見る(アスペルガー傾向)

 

 

「何かのもの、とにかく、はやく」目標のものを完成させて、すぐに飽きるが、ブロックの色や形は、整っていないのか。多動で組み合わせて物事を進める児童。全体を俯瞰をして見る目は鋭いが、細部に関しては雑で飽きっぽい。類似することや、アイデアの結びつきなど、関連をすることのアドバイスをすると伸びる。

森を見て木を見る(ADHD 傾向)

 

自分を早期に見つめたために 、自分を客観視して両方兼ね備えている、3タイプあるように思える。

児童をみていて、「ギフテッド」の難しさを痛感したことがある。周囲の評価や理解がない限り、自分の自然な才能を自分で知ることはできない。局所的なものすごい興味関心、ときには病的なことへの関心も「ギフテッド」で、理由なしにできてしまったり、熱中をする。本人でも気づくことができないのだ。興味関心が、社会・経済な受け皿がある才能となれば、ラッキーでもあるが、局所的な部分は本人の苦悩の始まりともなるのだ。

ギフテッドとは、大人の市場原理やすでに世の中にある何かに、役に立つといった合理性を求められる気がして、僕はどうも引っかかるので、「ニュータイプ」と命名している。


わたしの特性

「森を見て木を見る(ADHD)」私の例は、先述の心を閉ざした多弁でもあり、横展開の飛躍がひどい。児童と比べても、私ほどの凸凹は今まで見たいことがない。

知能検査の結果であるが、僕の個性でもあり、私を苦しめる部分は、推測の絵画配列が高すぎ、視覚的な認知の絵画完成が低く、間違いを見抜く記号探しの高さの飛躍的なギャップなのだ。単語や理解、知識など平均以上の知能がありながら、語音整列(ワーキングメモリ)が低く、理解をしている割に、基礎的な問題をミスをしたりして、わかっている割に、外に出ない問題がある。この非効率性が、独創的な作品や新しい発明が生まれたのだとも思う。直感や連鎖は長所とも病気とも言える。

 

多くの人が喜びや楽しさを自然に感じるように、「このこと」と、「あのこと」が連鎖をして、将来の予測が病的に沸き立つ特性があり、気づきをごまかすかのように取り繕う面がある。なんとなく、見たり聞いたりした点と点がつながって考える前に答えが沸き立つし、状況を勘ぐり、わからないふりをして取り繕う。テレビドラマのように、プロファイリングの捜査官が、仮説から察するように、全く関係のないこと同士が連鎖して、推測ができてしまう。

良い部分では、アイデアを考える際に、今後、ヒットするであろうと言った推測が沸き立つ。それは、大きなフレームで考えると、多くの人は飽きて、新しいものを求める、その次に、言葉にならない生活の不安や課題があって、その問題を言葉にしないで、カタチにして提案することが、多くの人の心に訴えるものになるからだ。良いもの、便利なものには、その快適性ゆえに何かの障害や、問題がおこり禅問答になると、思っている。

日々、起きている間、私の頭の中では、悪いことの必然性と良いことの問題点など、常に矛盾をした対立項が色々な場面でぐるぐるしていて、格闘をしている。「毎日、毎時間考えているのですね、それは相当大変です。」と言われて、「自分にとっては、普通です」と答えるわけだ。

病的になると、相手や状況の読みが深くなり、統合失調症のように、飛躍した物事や考えが連鎖しすぎることにもなる。僕は、思いすぎないようにと考えているが、不安は的中をする。未来を期待しつつ不安をする、言葉にならない気持ちは、「いい加減になる」「ジャイアンである」として、刹那的な思いが中和するように感じる。


言葉に出ないが苦しいこと

「自分の沸き立つ直感や推測がひろがることが恐ろしい」と思っていて、逃れるための取り繕いもしている。教えていただいたが、人工知能と同じように「フレーム問題」ということが存在していて、(高機能発達障害 人工知能とフレーム問題リンクさせていただきます。)、私の所有する会社も、家庭も、施設も、社会に帰属している感じがない。常に現実感が喪失していて、離人的で底がない社会にわたしが存在しているから、常に、その場その場でフレームを作っているのだ。そこで、私の特性とは真逆の、「慣れる努力≒変化のない固定された生活をする努力」をすることで、考えるフレームが定まり、多動的な思考の制限ができるかもしれないと考えている。自分の経験からも、ギフテッド(神から与えられたもの)ではなくて、ガンダムのアムロ=レイように「ニュータイプ」と命名するべきではないかと思う。

ADHD傾向が強い場合は、自分は何者かといった現実感に乏しく、世の中の多くの事象が客観的で、人も物も個体認識をしているから、他者との距離が遠い。そのように自分を分析している。

つまり、世の中の事象について、遠くからいつも俯瞰をしているので、全体的で、物事の横のリンクに連鎖をして、発想が生まれるのだと思う。その場にいても、その場に存在をしている実感が乏しいので、飛躍した発想やアイデアが連鎖するような気がする。今いる環境や、社会や友人の空間にいることができるが、愛着に近い帰属はできずに、常に客観視をしている。


嘘がつけない馬鹿正直か、時には違法か

  • 環境に関わらず、自分の本当や正直、短期的な本質を極める(アスペルガー傾向)
  • 環境に順応して、関連や結びつきを捉えて常に変化をしていく(ADHD傾向)

私は、後者の方だが、深める傾向と、拡散をして連鎖する大きく2タイプの、ギフテッド→ニュータイプがあると考えている。

次のブログでは、「才能ゆえの不適応」と「長所を伸ばしつつ、どのように育てるか」といった、難しい課題を考えたい。

 

南雲玲生

 

ニュータイプ → リンク

ファーストガンダムは、一般の社会に合わせられない(ような)、主人公アムロレイが、特定の人物と心を通じさせ、緩やかに勇敢かつ世の中に適応していくヒーローになる物語(だったと思う)。というきちんと調べない部分が、ADHDでもある。

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