10代の僕のはなしから、いままで

Last Updated on 2019-05-06 by djnagureo

 

先のブログ窓際のトットちゃんのととっと」に続いて、5年間服用していた「コンサータ」について説明をしたいと思いますが、そのためにも、私がどのような生活をして、どういう障害になったのかをさかのぼって説明をしないといけません。

ドーユーラボのみなさんにお話をすることもあると思いますが、まずは、若い頃の今となっては面白いエピソードから。

 

|18歳のころ

高校生の頃に、突然でしたが「なぜ大学へ行かないといけないのだろう?」と気づく自分がありました。進学校で周囲が受験勉強をしているなか、気持ちが乗らずに悶々としつつ、大学受験も1校だけで滑り止めもなし。本当にやる気がなかったのだと思います。そして、予備校に通っているときに、「やーめた!」と決心をしたときにすべてが吹っ切れました。家を飛び出して一人暮らしをしたときには、お金がなくて電気やガスを止められる生活を繰り返していました。もともとはADHD全開で「どうにかなる」ぶっきらぼうな自分は、みんなが驚くほど適当で良い加減で、クレジットカードも止まりお金もルーズ、場当たり的でした。公園で野草を抜いて天ぷらにしたときもありました。何が食べれる、これはまずいなど、当時の僕は本屋で立ち読みをしながら、公園は食べ物の宝庫と思って、天ぷらを揚げていました。料理は自己流でひどいものですし、包丁はつかえませんが、ご飯を炊いたりすることの延長で、困ったら何でもやりました。4万円の崖っぷちで傾いている安アパートは、雨漏りがひどく電子楽器(シンセサイザー)に被ることもありました。コンビニエンスストア系のクレジットカードは、パンやおにぎりもカードで買えるので助かりました。

ここまで読むと、悲惨な生活に思えるかもしれませんが、当時はとても楽しい生活でしたが、未来がありません。その日の場当たり的な自分です。栄養失調になり保険もない。病院にいけないぐらい困窮していましたのに、それでも大好きな車をローンで買ったり、滅茶苦茶で昼も夜も働いて働き続けました。寝不足と栄養失調で毎日ぼくの中で地震が起こりました。クレジットカードの督促が来たり、稼ぐために悪いことギリギリの仕事もしました。事情があって親や親族も頼ることができない状態で、今の自分ならば耐えられない状況でした。

それでも、毎日が楽しかったので、苦しいとも思いませんでした。生活は滅茶苦茶だけれども、本来の自分自身を取り戻したとても気楽でした。本能的にはどうにかなると自信のあるADHD全開な自分だったのだと思います。今でも、この時期もリリー・フランキーの小説を超えるぐらい酷くておかしい話がたくさんあります。

家庭が大変だったこともあり、親に期待される自分を切り捨てて、自分らしい生き方を模索するために必要な18歳〜20歳の自分だったのだと思います。

 

|仕事は高校生から

高校生のころから、アルバイトをたくさんしました。今の自分から考えれば、仕事と働く人たちで好き嫌いが多かったと思いますが、すぐにやめる癖は本当にひどかったです。一番つらかったのは、印刷工場のバイトです。夕方から朝にかけて、毎週雑誌「チャンピオン」「サンデー」「ジャンプ」を出荷するわけですが、体育会系な30代の人はボスと言われていて、スネ夫君のような周囲の若者は立てていて、すごいベテランで雑誌を積み上げるプロとして尊敬されていました。「週刊サンデー髭」と心の中では少々斜めに見えていました。このままここで働き続けると、一生漫画雑誌をパレットに積み上げてトラックへ搬入をする仕事で僕は死んでいくのか。と、将来を悲観したこと、そして、体育会系的な雰囲気が合わずに、夜中に印刷工場を脱走をして、終電もないので国道を20キロ以上歩いたことを思い出します。僕は、その日以来漫画本を読まなくなったこと、45歳になって気が付きました。

また、パーキングエリアのレストランで皿洗いもしたことがありましたが、自分にはできるわけもなく、吹いた食器も洗剤だらけです。周囲はいらだちの先にあきれてしまい、学生のホットなノリにもついていけず、これも、夜中にパーキングエリアの非常脱出口の柵を乗り越えて逃げたのでした。いろいろ沢山のひどいことはありますが、30年ぐらいたつとすこし笑い話にもなりますが、本当に申し訳ないことでずっと思っていました。学校を卒業してから、大学に進学しなかった自分は、20歳になるまでの2年間も、仕事が落ち着かずマルチメディア系なソフトの会社やCM音楽の会社に入社をしたりしました。ADHDだったなと思うのは、周囲に合わせず出しゃばりすぎたり、逆に、空気を読みすぎて合わせすぎる自分がありました。このモードだと、自分自身について一切語らないが、周囲に合わせるだけですから、いじめもおこらず、個性は目立たないがひたすら仲間はできて、当たり障りない自分になることができます。

いろいろなアルバイトをして、合う仕事合わない仕事を経験して、衝動的にバイトの現場から脱走をしたり心に正直だけれども、社会的には不適応なことも数多く経験しました。また、自分は疲れるけれども、「自分の気持ちが存在しないものとして、ひたすら周囲に合わせる」=適応障害になってしまうモードによって、敵を作らずボケて合わせる技術も得ることはできました。

 

|褒められるが恨まれること

アルバイト生活の中で、写植の配達の仕事を半年ぐらい経験をしたことがありました。インターネットが普及する前の1992年ぐらいですから、マッキントッシュで雑誌やパンフレットのデザインをするDTPと呼ばれた業務の初めのころです。僕は、その会社の社長とデザインの原稿(当時はフロッピーディスク)をネットワークで送信をしてもらえれば、営業がわざわざデザイナーの家に行かずに済む、として、データセンターの仕事をしました。その会社の社長に気に入られたのか、給料に特別な手当てをつけてもらいました。でも、自分が分からなかったことは、自分の仕事によって配達の効率化が進むものの、配達の仕事がネットのデータ送受信によって、無くなってしまって仕事に困る人もいるわけで、自分に対して好意的ではない雰囲気、気がついたら反感を買う、風当たりが強いことも感じました。良いことをしても、よく思わない人がいるとか、世界レベルに合理的で良いことでも、その場においてはよくないこともある。と、考えることができます。

 

|音楽のレッスンとパチンコ

高校生から僕はピアノの練習と、みんなに遅れて「新曲視唱」「ソルフェージュ」を小学生と一緒に習うことになりました。僕は音楽のレッスンの月謝を払うために、ハードな仕事をしないといけなくて、パチンコ屋のアルバイトをしました。この時のピアノの先生は、音楽の構造を論理的に分析することを教えてくれました。楽譜を遠くから見ると、記号や塊に見える。音楽の感性はもちろんですが、記号や塊にみるととても面白い構造です。僕は、聞こえてくる音楽を視覚で捉えることができて、スティーブライヒやクセナキスなど現代音楽をたくさん聴きました。直感や感性を超えて、記号的に音楽が作れるのだと思いました。のちにビートマニアなどの音ゲーに関わるきっかけになることも、この時期の経験がありました。

このレッスンによって、音の感覚や受け取りはかなり研ぎ澄まされて、自分の作品を作ることがどんどん面白くなりました。でも、パチンコ屋さんの仕事で、店内の音楽が頭の中でループをしながら、高い月謝を払うためにも、好きなレコードを買うためにも親にも言えずに、内緒でパチンコ店のバイトを続けていました。

 

|派遣の仕事

昼夜働くなかで、一番つらかった思い出は、「派遣会社でSEの仕事をする」ための面接でした。横浜から渋谷までの電車賃はギリギリで、面接会場に到着しても「考えるための気力」がありませんでした。面接で質問に対する応答を考えるだけでも精一杯で、眠いしご飯が食べられないし歩くだけでも精一杯です。流石に面接をする方々から体調面の心配をされることもありました。ぼくは、たくさんの仕事を平行をしてなぜ進めようとするのだろう、と考えて、自分に向いていて楽しい仕事があってそれを続ければ良いのに、と自問自答をして当時は「好きな仕事だけをやれば苦労をしない。」と思いました。

今の自分から当時を想像すれば、「プライドが高くて、給料が良い悪いではなく自分が良いと思える仕事を選んでいた。」とも言えます。

 

|音楽のしごとだけは

高校生のころに、偶然アップルコンピュータ(当時)のラジオCMを作る経験をして、少々ギャラをいただきました。今の45歳の自分の感覚や思いとは異なり、全く別の自分がやった仕事のように思いますが、ゆるやかに空想で音が作れるようになったのだと思います。高校生の頃のバンド活動の経験なのか、音楽はとても楽しくて、音楽の仕事ならばずっと続けられるであろうと、甘い考えがありました。僕は、CMの音楽を作る仕事に入社したものの、スタジオや広告代理店にデモテープを作ってCMの音楽を取り上げていただく営業など数ヶ月チャレンジをしました。スタジオではミュージシャンがいて、アシスタントという全然仕事ができない小僧として働くものの、僕にとっては難しい仕事でした。一番は吃音で電話もコミュニケーションが取れずに自由に話せない障害が重かったように思います。そして、音楽を作りたかった強い願望があったのだとも思います。

紆余曲折あったものの、ゲームの音楽は会社も大きいし、ボーナスがもらえる。しかも楽しいと思って、数社応募をいたしました。仕事が落ち着かなかったものの、高校生から続けていた、凝縮された2年間。アップルコンピュータの音楽の仕事など、小さな実績の積み上げで、就職難なバブル崩壊後の時期にもかかわらず2社内定をいただきました。

その後のことはネットにたくさんあるので割愛をしますが、18歳から2-3年のモラトリアム期間は大学の時間のようでもあり、ふざけた社会人経験によって、入社をしてある程度会社にあわせられたことと、ゲームクリエイターといった特別な空間は、僕にとって気持ち的なストレスが限りなくない状態であったこと、そして、僕が最大のパフォーマンスを出せたことは、本当にありがたい大人のスタートであったと、今は感謝をしております。自分自身を他者のように見つめるのも、正当化しすぎるように思いますが、一人の若者が社会に出るまでに、たくさんの大人のサポートや支援が必要なこと、どんなに周囲が「ろくでもない」と思っても、誰か大人が支えることによって自信を持たせることができるのか。

 

|ゲーム会社

自分が子供のころからなんでも経験をしたこと、プログラムも音楽も雑学もすべての経験が役に立ったことも、ゲーム会社に入社できてよかったです。入社をして1年目は周囲に合わせるモードで誰に対しても当たり障りもなく、うまく過ごすことができました。ところが、2年目に自分が担当をする、後にヒットをしたゲームに関しては、若者だからこそ許されることも多かったと思いますが、沢山先輩や上司へ提案をして限界まで働き、仕事の面白さ=大みそかに紅白歌合戦を会社で見るぐらいの健康的に仕事大好き人間でした。毎日会社に泊まり守衛さんと仲良くなるのもこのころです。バブル崩壊後で日本の社会全体が暗いムードでしたが、自分は忙しくて遊ぶ暇がなく、ホンダのNSXという好きな車も手に入れ、大学へ進学をした友人とは違った、自分らしい道を進むことができました。でも、物が手に入っても、心には何か物足りなさがあって、チャレンジをしていこうとおもいました。

僕は23歳から24歳に音楽ゲームをたちあげるメンバーにしていただいて、ゼロの状態から若いみんなで夢中になって新しいゲームを作り上げることができました。それは、「周囲に遠慮をすることなく、周囲も僕に遠慮せずに、面白いゲームを作りたい一心」で大きな衝突もなく、余計なストレスもなく全開で作ることができました。ゲームの企画もアイデアも、音楽も、外注管理など勝手に進め、事後報告で怒られることもたくさんありましたが、20代前半のわりに自主的に勝手に動いたことと思います。僕だけではなく、周囲の仲間も先輩も、直接細かく指示はありませんが任せてくれました。自由に野放しにしていただいた会社や上司がいたおかげである、とも言えるし、のちに、後藤先生も僕の人生を変えたのは、「当時の僕のようなクリエイターとしての才能を見抜けた大きな組織や会社はすごい。」僕の入社試験はどうだったのか、興味を持たれています。学校の勉強を超えて、知能検査でどうも、自分は「みんなには難しいが自分は簡単なこと、なにか?」があるなと思いました。

この時の経験から、私は自由で野放しになることで、最大限の能力を発揮することができる。どんなに偉い人、先輩の忠告も、ある程度助言として聞いておく。自分は多くの人とは異なるので、多少角が立っても自分なりのやり方が良い。一番難しくて、自分がぐらつくことですが、正解だと思っています。

 

|子供のころとは別の世界・環境があった

その後、コンシューマゲームという、ゲームプラットフォームの会社に行くわけですが、さらに毎日ゲームの企画を考える楽しい日々を過ごしました。ゲームの開発部署は、面白い経験や面白い話をしながらアイデアを練ったり、試作をしたり、研究を極める日々を何年もすごします。人生で一番ストレスがなかったのは、20代の10年で好きなことだからこそ毎日夢中で仕事ができて、ADHDやら周囲に合わせるといったこともなく、自分の先輩や仲間と面白いものを考えて作ることが、ずっと続いていました。もちろん、自分はヒット作に恵まれ続けたことと、それを期待をされる前向きな環境で、同じような仲間といられたことが、本当に楽しかったと思います。

自分が、ドーユーラボの児童や学生に伝えたいのは、自分が好きなことを全力でできる環境があれば、何ら問題がないという、自分の実体験です。

 

|友達が増えると障害に?

ここからは、読む人にとっては受け取りが苦しいことをはっきり伝えたいと思います。

私は、社会人になって、家族や学校の仲間とは異なる、自分が得意な世界にうまく入ることができました。好きなことは仕事で楽しんで、すぐに結果も付いてきました。でも、子供のころのように、下町であったり一般的な人々の中で、調和を意識しなくてはいけない中にに自分がいると、自分の思いと、状況が全く異なるのに、自分の気持ちに嘘をつかないといけない不適応が強くなる経験=適応障害があります。自分の思いや考えで思いっきりチャレンジをすることが自分の特性ですが、周囲へ配慮をして周囲に合わせることは、心の奥底では言葉にならない複雑な思いと、長年合わせなくてはいけないのではないかといった、強迫感がとても強くあります。僕は、周囲に過剰に合わせすぎて、疲れてしまったり、本当の思いや気持ちがストレートに言葉に出なくなってしまったのです。

僕が多動気味=マシンガントークをしているときは、自分そのままではあるのですが、意識をしすぎて、周囲の人の思いを察していると過剰に合わせすぎたり、配慮をしすぎて「考えて反応をしすぎる」ことになります。子供の頃は、自分がよく思わないときでも、良い表情をしなくてはいけない癖が、自分の気持ちと乖離をしていくのです。私を見ている周囲の目を気にして、周囲が心配をしないような、全体の場の雰囲気を考えて発言をすること。それは、普通ではないか?と思うかもしれませんが、僕はもともとADHDなので、気にしないマシンガンだったはずなのです。僕は、20代の頃は好きなことで全開で、大成功をしたから30代で勘違いしていたとなったのではないか、と思ってました。

20代で人並み外れた生活や、収入は、30代となって自分の会社をやって地元の友人には、皮肉や妬みも言われたこともありました。今の私から客観的に見れば、障害の有無に関わらず周囲とのレベルやレイヤーが異なりすぎたというように思っています。ドーユーラボひやごんのみんなも、思考が深かったり、先を読みすぎることは、沖縄の周囲の社会とは相当あわないのではないかと、勝手に推測をします。沖縄の方は、できる学生は内地にいくと伝えられます。人との調和を大事にする社会では、飛び抜けたり、本質を極めようとする皆さんがなかなか馴染むことが難しいと思います。僕も、一般的な和に飛び込むと病気がひどくなります。僕は、高いレベルで自由でのびのびできる社会で、結果を出してきたこともあり、規則や空気に縛られる組織は難しく、一方で合わせることもある程度はできるので、逆に自分が難しくなるのです。

30代は、ネットも含めて知人友人が増えましたが、僕は逆に疲れることにもなります。

僕は人に対して、合う合わないが繊細なのに、ごまかして誰に取っても良い人で嘘をついていたのですね。

 

|アダルトチルドレン、適応障害

後藤先生からは、ADHDの二次障害の適応障害が重いと診断を受けました。

私は、周囲の人を察し、心を読みすぎて、自分にとって嫌なように”あえて”受け取ったり、よくないことの連鎖や関連付けをして「うまくいかないことを事前に想定をしておくことで、安心をする」「底のない絶望」「終わりなき不安」が常に存在をしていました。最悪な不安を担保することで安心なのです。具体的には、場面で合わせすぎたり、おどけたり下げておいて、他者が自分をどの段階になったら、舐めたり、甘えが起こるのか、私に対する態度や視線や集団の同調を病的に観察をしておき、やはり他者は自分を舐め出したと、期待通りに進むことを望んでいたように思います。全ての計画や目標について、具体的にしておかないと気が済まなく、「銀行でハンコを押す際に押したハンコをそのままにしていたらだらしないと思われる。」など、ハンコ専用にティッシュを用意したり、ボールペンもインクが切れたらどうしよう、自動車で打ち合わせに行く際に、事故を起こして遅刻をしたらどうしよう。など、毎日予期不安がたくさん起こり、完璧な準備をおこなう。一方で、道化師のように場面に合わせ自分を下げて、感情もなく、その場面で自分の性格を変えるような、常に思考によって自然な行動ができなくなる自分があります。

10代に波乱万丈をたくさん経験をしたためか、お金や計画については、神経質でかなり注意深くなりました。

僕は、全てを推測し、計算できることは事前に準備をしたり、自分に対して攻撃されるように、あえて下げすぎたり病的な日々が続き、表面上ではやたら良い人、こころのなかでは、推測が高すぎるアンバランスな自分になり、障害者手帳2級を受給することとなりました。ストレスで体重が増加すると、過剰なダイエットをして、自分を律するどころか体調不良になっていきました。この時期は、アスペルガーのように見えたのだと思います。

当時の私の気持ちを今考えると、想像を絶するぐらい神経質でした。私は、ADHDの二次障害である適応障害が重症で、本来のADHDにもどり自分の認知の歪みを補正をするたびに出ました。子供の頃からの、まっすぐ間違いのない道を歩んだことを、ADHDっぽく寄り道や悪いことにもブレながら、自分を経験をしながら整えること5年の月日を要しました。(子供になればなるほど、歪んだ認知で経験をした年数が少ないので、補正しやすいのだと思います。)毎日の行動を細かくメモをとり、多くの人はこの程度の受け取りで、自分は深く考えすぎている、とか、自分にとっては軽い程度だが、多くの人はもっと複雑に思うなど、分析をしました。

考えても考えてもわからず、ミシェルフーコーやドストエフスキー、リオタールなど、狂気や個性、全体性について、本を読んでいないと論破できず生きてられないぐらい突き進んでいました。後藤先生から指南をうけ、頭で学び考えるけれども、心や思いは異なる。心や思いは現実の経験でしかない、として多くの人にとっては当たり前で直感で思うことすらも、全部考えるトラップに陥りました。全て世の中が合理的で理論的であることを論破するために、先生は量子力学や自己組織化、人々の自由な営みについては創発を例にあげてくださいました。僕は、人生で一番というぐらい学び続けました。

面白いことに、適応障害を直すには、崖っぷちでフル全開にならなくてはいけない場面で、周囲を気にせずに改革をしたりリストラをしたり、追い込まれると自分の本当の姿に戻るのです。周囲が恐れて別人格になることですが、本当の僕はジャイアンなのです。10代20代の経験もあって、多くの人の”うつ”的な症状が、僕はハイパーで多動になります。児童でも、クラスで落ち着かないことは不安の症状だと思いますが、同じです。うつ的に考えられない状態もときには必要だと思いますが、僕の場合行動が止まらなくなるので、一見元気に見えます。

 

|コンサータ

私は、適応障害や誤った過剰な空気読みによって、振舞うことで社会に生きてきました。バランスの悪い自分、そして本来のADHDに戻りトラブルを回避するために、コンサータを服用しました。嫌だと思う場面や、自分の認知が歪んでいる部分、不注意が増加した際にコンサータによって客観的な自分を分析をするようになりました。多くの人は思考が静かでゆったりしている、自分は思考が騒がしいことがとてもよくわかりました。

適応障害の時の私の先読み不安と、同質なものを異なる認知で理解をすることができました。適応障害の時の受け取りは、嫌なことを、自虐的に余計に嫌だったと結論をつけることが多く、不安を先に用意をしておけば、それ以上なことはないと安心をしました。コンサータによって、不安を先読みをするが、全体的にプラスになるようにその場面を調整をしようと、前向きになります。でも、コンサータは、感情に乏しくなり周囲は安心をするが、コンピュータ的で冷徹な自分がおり、アスペルガー的にもなる気がします。猛烈なADHDは、コンサータによってバランスを取りながら、修正をしていきました。

コンサータ服用から、5年目を迎えた頃には、飲むことで疲労感や焦燥感も増すことがわかりました。おそらく、本来の自分を取り戻し、薬が効きすぎて重く感じたのでしょう。服用を緩やかに抑えていきました。薬を飲んで客観視できる自分が強くなって、意識や思考の癖がついて、飲まなくてもある程度は補正できるのだと思います。今は、服用せずにおります。すると、周囲に自分を合わせすぎず、自分が楽な場所や人を求めるようになりました。申し訳ないと表明をしつつ、自分のいやすい場所に今はいます。

私個人的には、「コンサータ」は依存や服用をやめれなくなるような問題は少ないと考えますが、体重増加は気になることです。

 

 

|楽な場所

僕は、どうしても「IQで人の特性を図らないといけない場面」があることと考えています。高知能な凸凹の皆さんは、一般的な凸凹の方とは異なるのは、「・・・という」自分を自分で見つめることができるので、周囲に合わせるために、「自分を下げたり」「自分の別のモード切り替え」ができるようになるのではないか、と思います。IQが20離れると会話が合わなくなるということも頷けます。

私は、20代に経験をした2社=会社員時代のほうがとても楽であったのは、社会全般的には高学歴な人々の中にいて、私は高卒でしたが、自分よりもレベルの高い方の中で、刺激を受けながら楽しんで働けました。何も考えずに甘えることができたとも言えます。仕事についていけないなどの問題も少なく、むしろ、仕事ができる自分の自信があったことと、一言二言で話がみんなと通じあうことができました。というよりは、自分が伝えたい言葉を超えた絵的なイメージを理解してくださる同僚や先輩、上司に恵まれたことでした。よって、会社員としては全く困らなかったのです。ーーーもしかしたら、会社側は困っていたかもしれません、その可能性は非常に大きいと思います(笑)

当時の自分は高知能とも、凸凹ともあまり思わずに、子供のころにあった吃音やストレスが軽減をしていて、むしろそのようなことを考える暇はないぐらいでした。

それで、しつこいのですが、知識や経験が近い人が周囲にいると、二言三言で、言葉の持つ意味の幅の最大公約数や共通項をくみ取りあい、少ない言葉で分かり合えるものと思います。ところが、文化も生活も異なったり、知識が異なる人の中に自分がいる場合は、相当自分を下げたり(怖いな、アダルトチルドレンとしてはこの言い方)、伝えたいことの前提条件の知識や経験が合わないので、言葉多めで伝えてしまいます。相手はバッファがあふれる事態に陥ります。

社会一般的には、議論の内容の精度よりもその場の雰囲気や同調の圧力によって、意味が理解しあっていないが、深く考えず物事が進むことも多いと思います。多分社会的な影響力が少ない個人間のやり取りにおいては、本意よりもノリの方が物事がよく進みます。でも、立場やその人によっては、それでは物事が進まない管理や社会的な立場があり、一緒にいることは難しいのです。

場面によっては、本質や本意よりも、その場の人との関係性や折り合いをつけあい、全体としてはよくないが、その場としては最適化をはかることが増えるので、自分は本当にくだらないと思いながらも、嘘をつかないといけないと思ったり、感情や空気に寄り添うが、結局何も生まれない中にいないといけないわけです。多くの人は、嘘や本当ではなく「空気をプラグイン」する自分が存在していて、自分ももちろんその感覚もあるのですが、合わせると疲れてしまうのですね。

自分は、自分以上の経験をした人生の先輩や仲間を探すようにしていて、友達の範囲を制限をしました。自分の面倒臭い部分のバランスを取っています。ドーユーラボのみんなも似ていると思います。

 

僕は、自分の経験から、言葉よりも、深く、心の二層目三層目といった複雑な思いに対して、分かり合える仲間がとても大切だと思っています。たくさんの誤解や、迷惑を僕はかけることになり、合わせすぎる僕によって、逆に不快な思いをさせたり本当の僕がわからないとか、心のレベルの反省もふくめて、全部を事業として似たような仲間に少しでも思いが軽減できるような場所を用意することが、僕にとっての新しいチャレンジと、今までの償いでもある。そのように思います。

児童や学生には、自分よりも歳上の先輩の中で生きること、自分と似たような境遇の仲間と一緒にいることが、「言葉を使わなくても、なんとなくわかりあえる」安心の場所だと思います。

 

僕の子供の頃を思い出され、自分の経験をあからさまにしても、それが事業であり研究でもあるから、なんら恥ずかしくない。

それは、自分はもうどうでもよくて、次の似たような人に継承をする覚悟があることと、

これまでの経験や体験から、ドーユーラボはみんなの安心の場所にしようとおもいます。

 

南雲玲生

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