「感じること」よりも「考えること」がおそい。

 

先日は、後藤先生と午前一時まで議論・・・というか、付き合っていただきました。

いつも遅くまで申し訳ございません。

このように、書き出しながら、いろいろな場面での認知や受け取り方を数年間分析をしています。

 

少々シリアスですが、試みていることと、

 

僕は、10年前のWAIS-3の検査の結果でわかったのですが

「感じること」に応答して「つたえること」の乖離があります。

自分が思ったことを、嬉しい、とか、悲しい、とか言葉にすることは

知識の組み合わせであって、言葉で考える前の「思い」があるのだと”思い”ます。

 

思うことや、察すること、予見することは、多くの人と同じか

もしかしたら、繊細に本当は受け取っているのかもしれない。

 

感じたことを、感じるよりも、思考がはやい。

「考える」→「感じる」

だから、表情や言葉など感情の伝達が遅いか、反応が鈍い。

感じるよりも、考える方が優先度が高い。

多くの人は、

「感じる」→「考える」

本当は思っているけれども、表情や態度が出ないように抑えることに苦労すると想像する。

 

例えば、自分がバッターとして、

ボールが飛んできたら、どのような色のボールで、どのような速度で、

周囲を見渡すと、飛んできたボールに対して、守備は前進をしているのか、どのように構えているのか。

言葉で考えるわけですが、言葉で考える以上に、球の速度が速いから、それでは振り遅れて遅い。

考えているうちに、キャッチャーがボールを捕らえているわけです。

 

相手から受け取ったら、どのように返答をして、先まで読んでいると答えがでない。

 

僕は、一連の「言語で考える動作と答えを出す処理」を経てから「思う」プロセスとなり

「言語で考える選択肢」が複数になるから、すぐに反応できない。

疑問を覚えまして、言語で理解をする前に

五感を意識で統合させるので、言葉にする前に必ず意識があり、

この言葉の考える前の反応は、必ずあると思いました。

 

自分は、長い間、「言ってはいけない」とか、「失敗してはいけない」

など

人として自分は「こうあるべき」という、自分として熟した認知を緩めることを

5年ぐらいやっていました。

間違い、痛い、嬉しい、悲しいなど、全てぶつかり、そのまま反応をうけるのかもしれません。

 

一度、思うことを伝えてみました。例えば、

 

「自分は人格を否定をしない。でも、その人のその部分について、自分はよくないと思うことを言う。」

「それを、よくしてもらいたいから、はっきり言う。」

「自分の人生経験や、発達障害についての学びがある。」

「わかるまで、伝える。」

「それでもわからない場合に、怒る。」

それが、相手を思う信頼として、

包み隠さず、そのまま伝えること、その癖をつけました。

それは 私が当事者だからこそ、許されることでもあり

自分のような経験をしている、という背景を知っているからと。

 

「思うことをすぐに伝えてしまう」

失言として失敗をするは、自閉症スペクトラム(アスペルガー)な人、ADHDも持っているとされます。

自分は、発達障害のわりに、思うことが伝えられない、考えて伝えすぎていて

それは、幼少期から、「・・・という自分」を知っているから、

補正した結果の二次障害とおもいました。

 

さらに、社内でこのようなお話をしました。

 

発達障害を本人が認知しておらず、全開な人がいる場合、それで不快があった場合。

・積極奇異型だから、相手と自分の距離が近いとか

・複数の人がいても、二者間の関係(二人称)のコミュニケーションに完結している。

・自分が不快感を覚えても、なぜその人が個性的なのか深く考えてしまうこと

・自分が不快に思っても、考えることでバランスをとることにする。

・私は、相手が接近をして距離が近いことを受け入れていることに、違和を覚えない。

・相手にとっては、無意識で特別な人、類するものとして認知してしまうから

=私が「・・・と気づいていることを、読まれないようにする。」

ことに必死であると伝えました。

まわりくどい(笑)

 

沖縄では、おなじ仲間としての社会的な場所があるから、全然問題ない。

しかし、あくまでも、自分が見ている東京の仕事は、

多数派的な一般的な振る舞いや距離をとってくれないと、社会のルールが崩れるから

甘えないでほしい。と伝えました。

 

このように、一般的には「思うこと」はその人の主観であり、

みんなが思うようなことをあえて「言うなよ」となると思います。

 

でも、表面的なやりとりで完結をしすぎて、深い察しや読みができていない

人の心の思いや気持ちは、考えるよりも奥深い本音があり、その部分を配慮したり

気づいたうえで、さらに先回りする配慮をする。

と、言葉で伝えたのですね。

 

考えて応答することは、その場の人や空気に支配された本当ではない表出(言葉)であり、

そのまま、思いや正直に意味もなく「言葉になる前に反応することが本当」で

多くの人は、思うこと=本当の部分で生きている。

ビジネスや合理的なことが求められるシーンでは、考えて話すことが当然求められる。

でも、その裏で、その人の思いや気持ちが一番であり、

その部分への配慮や察し、先回りをすることが、本当の空気であり、

自分は、多分、その部分に気づき出している。

 

と、当たり前なことを、言葉にするのが難しいことを伝えました。

思うことを引っ張ることを自分はやっております。

 

という自分を育てていただいているのは、沖縄の皆さんや

日々親しくお付き合いいただいている、医師や専門家のみなさんのおかげです。

そして、大切にするからこそ、学びを伝えていこうと考えています。

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