湾岸音楽 プラスティック・ラブ 

 

昨年から「プラスティック・ラブ」竹内まりやが海外で話題になった。tofubeatsが1/23にカバーをリリースする。20代だからできるな、という思いと、20代ではないあたりまえな自分。よい意味でショックだった。  

 

||湾岸音楽

僕が、10代や20代に音楽をやっていたい時期は、サンプラー(音楽を手短に録音をして、すぐにプレイバックできる)を中心とした、再再生=フューチャリングという言葉が多用された時代だった。 当時、1990年 – 30年 = 1960年代から、70年代のアナログでローファイな、ソウルミュージック、ジャズ、ロックの名盤を発掘するために、渋谷でレコード屋さんに行ったり、「限りなくカバーに近いグレー」で元ネタを探したくなるようなヒット曲が流行った。 あえてひどいことをいうと、「極めて膨大なデータベースをもっているかどうか」で、スーパーマルチで、レディメイドな組み合わせで、センスが良ければ許してもらえる時代だった。

80年代は、コンピューターで音楽を作るとして、「これからの時代は、指一本で、勉強なしに作曲ができる」と教授(坂本龍一)が言っても、弾いたり、理論がわからないと音楽は作れなかった。その頃、僕は小学校の頃からパソコンで音楽を作った。あとから、ピアノを習った。

90年代は、センスと耳で、サンプリングの組み合わせ+粘着力でサウンドが作れた時代だ。コミュ力が高ければ、作曲ができる人と、歌が上手い人と、コピーライティングの上手い人と組み合わせて、大衆を意識して渋谷と伝えればなんとかなった。結局は大衆を意識した、クラブ発信型なアダルトチルドレン型なクリエイター時代だったなと思う。

2000年代にはいると、自分がよいと思ったものを極められ、リスナーは意識しない中心思考か、自分だけアプローチするけれども、一方通行で積極奇異型なクリエイターな時代だったのかもしれない。

好きなことをやったら、偶然有名になってしまったから、90年代的な手法でレコード会社かメジャーをアプローチをしても、「公務員になります」的に、損をしないで生きられる日本みたいなことを、すでにわかった(もう分かっちゃってますから)という、本当のアーティストが増えた。

その中で、tofubeatsは、ボカロ系と交われてない90年代が残っているなあと、注目をしていた。

僕は、いつも小田急相模原を連想する。

 

  ||お父さんとお母さんの音楽 ブラコン

僕は、45歳だ。 25年前の1994年 昭和30年代の弘田三枝子から左とん平まで聞いていた。好きな俳優は、ニヒルな天知茂だった。 思い返せば、反抗期をすぎ、両親が聞いていたサウンドがドカンと来た。

35年前の1985年 竹内まりやの「プラスティック・ラブ」のリリースされた時期。僕は新星堂やオーディオ、アマチュア無線ショップ、ゲーセンに通いながら、日能研にいっていた小学生。 ブラコンとは、ブラックコンテンポラリーの略称だそうだ。R&Bやソウルミュージックを、白人っぽいデジタルにしたことだと思う。

汗をかかずに、おしゃれでデジタル感を加えたシティなサウンド。

音楽スタジオにも、デジタルディレイや、リバーブが増えて、リズムマシーンも安価になって CDに向けたマスタリングが増えて、デジタルもっこりなハイファイになったのだ。曲の構成も、中森明菜系で多用された、切なくアジアっぽい服部先生系の歌謡ストリングのアレンジメントと、西海岸のような乾いたホーンセクション、そして、山下達郎の表情が思い浮かぶ、ギターソロ。本来バラバラなサウンドが一体化している。

孤独な友達(F → C/E → D)のオチがなかったら、この曲はあり得ないだろうなと感じた。このフレーズは、竹内まりやは、嘘を高いレベルで嘘にしないひとだなとも、面倒に違いないと思った。(そんなわけが・・・)

昔は、僕は絶対に聞かなかったけれども、アーバンライナーサウンド(神奈川県だと、二宮や大磯あたりから、千葉県だと大網白里町から新橋の会社に通勤するような)、湾岸音楽だなと思う。邦楽だと、松原みき、角松敏生やカルロストシキ&オメガトライブ、初期のドリカム、中原めいこ(敬称略)など、たくさん発掘しがいのあるワンレンボディコンなレコードがあるとおもう。

30年前のサウンドを、今頃の若者が再生させる、両親が聞いていたシティサウンドなのだ。やられた、くやしいと思った。

 

 ||想定外だった

ずっと音楽をやめてしまっているので、頭は90年代で止まっていて、音楽を純粋な気持ちで楽しめるようになった。 そして、自分が嫌だったサウンド、あえて遠ざけていたサウンドが、耳障りよく聞こえてくる。 ユーロビートもブラコンは大嫌いだったけれども、最近の僕は、なりきりができるので、物分りが良くなったのかもしれない。 アーティストが長年ずっと活動をしていると、苦しさも難しさも想像ができるからぐっとくる。若い頃は、痛いなと思っても、多分、アーティストの気持ちの中の崇高な部分は、おそらくこの部分にあって、結果として落とし込まれた音楽なのだと、思える。  

 

||流行りのディスコで

僕は、カラオケボックスで、長渕剛や近藤真彦、小林旭(以上、敬称略)を歌うと、モノマネになる。理解はできないけれども、どのような世界だったのかと、想像をすると楽しくなる。任侠や人情なのか、ポップなのか、自分には絶対無理だけれども、演じることだけはできる。「熱き心」に、亀田のあられをいただいた、お茶の間の8トラックなカラオケ感。夢の中のようなノスタルジーになる。  

 

||中年以降を内省した。人生いろいろ

最近、僕に起きていることを初めて言語化できたのは、残りの人生をいろいろな人になりたいと思っていた。

「人生いろいろ」これまで、音楽や、ゲームのクリエイター、ITのアプリの人を過ぎて、「人に興味がでてきた。」とも言える。 コンピュータ好きなオタクは、大人になりプラスティック・リア充になり、作曲家になり、ゲームクリエイターになり、ITをやり、社長になり、今はシティポップを目指している。 プラスティック・ラブとは、子供の僕の田宮模型のプラモデルではない。 「流行りのディスコで」を、歌えるオタクの最後のミッション・・・。 人生最後のクエストは、長渕剛さんになれるかどうか。いや、無理だ。 プラスティック・人間なのだ。

One Response

  • ギターを弾く時間が減って、余計音楽への欲求が増す中年後期
    これでいいんだと思えたのは諦めかもしれないけれど
    絶対にやらなかっただろうポップなメロディーしか思い浮かばなくても、スタイルカウンシルの音でアンプぶっ倒していいならオレはまだまだパンクでいいと肯定的

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